[{"data":1,"prerenderedAt":-1},["ShallowReactive",2],{"$f5FrjPmp-p66JrpS2gadPJYlSsL_63DrlHx4El8nth1I":3},{"answer":4,"createTime":5,"id":6,"options":7,"origin":12,"question":16,"related":17,"source":21,"type":22},[],"2026-01-04 21:06:44",301544626,[8,9,10,11],"朝早くならいいと思う","夕方ならいいと思う","昼飯時ならいいと思う","平日ならいいと思う",{"courseId":13,"courseImg":14,"courseName":15},"53e1d2ef4961cca8eea3e23969ad2cb9","https:\u002F\u002Ftihai-oss-cloud.itihey.com\u002Fimg\u002F03a579384a6dc297c89809b582fcc767.png","默认课程","モナリザの前はいつも人ばかりがしていて、とてもゆっくりと心静かにながめていることなどはできないのである.朝早くならいいだろう、と思って出掛けて行けば、だれもがそう思うらしくて、朝っぱらからやはり人だかりであり、夕方の閉館まぎわなら、と思っていけば、ここでもまただれもが①そう思うらしくて人だかり,昼飯時もまたしかり、というわけであるから、これはやはり世界一見がたい絵である、といわざるをえないのである.わたしは十回以上はこの絵の前に立ったと思うけれども、じゅうぶんに見たとはいいきれない.これは一人でゆっくりと観賞することの不可能な絵である.②まことにやっかいなことであり、またやっかいな絵なのである小题:文中の①「そう思う」はどう思うのか",[18,23,32,41,50,59,68,77,86,95],{"answer":19,"createTime":5,"id":6,"options":20,"question":16,"source":21,"type":22},[],[8,9,10,11],"v1",0,{"answer":24,"createTime":5,"id":25,"options":26,"question":31,"source":21,"type":22},[],301544627,[27,28,29,30],"一人でゆっくりと見ることができない不満の気持ち","モナリザをまた一度見るのがとても嫌がる気持ち","モナリザのおかげで自分がばかとされたくやしい気持ち","どの絵よりもモナリザの魅力を感じ取った気持ち","モナリザの前はいつも人ばかりがしていて、とてもゆっくりと心静かにながめていることなどはできないのである.朝早くならいいだろう、と思って出掛けて行けば、だれもがそう思うらしくて、朝っぱらからやはり人だかりであり、夕方の閉館まぎわなら、と思っていけば、ここでもまただれもが①そう思うらしくて人だかり,昼飯時もまたしかり、というわけであるから、これはやはり世界一見がたい絵である、といわざるをえないのである.わたしは十回以上はこの絵の前に立ったと思うけれども、じゅうぶんに見たとはいいきれない.これは一人でゆっくりと観賞することの不可能な絵である.②まことにやっかいなことであり、またやっかいな絵なのである小题:②の文「やっかい」という言葉を二回も使われているが、これは筆者のどんな気持ちを表しているのか.( )",{"answer":33,"createTime":5,"id":34,"options":35,"question":40,"source":21,"type":22},[],301544628,[36,37,38,39],"「過失に対する反応」の例を採集するのにたいへん苦労をした","「過失に対する反応」の例を採集することによってたくさんのことを知らされた","自分の過失を素直に謝る習性のある国は意外に少ないことが分かった","日本人が美徳とされるものはほかの国にも通用することが分かった","わたし自身の体験では狭すぎるので、多くの知人・友人または本から、「過失に対する反応」の例を採集した結果、①どうも大変なことになった.世界の主な国で、皿洗いの人が皿を割って直ちに謝る習性があるところは実に少ない.「わたしの責任です.」などとまで言ってしまうお人好しは、まずほとんどない.日本人とアラブと正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラブ寄りである.②中国やベトナムもしかり.ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうにもないささいなことである〔③〕「すみません」を日本人よりも軽く言う.この謝罪は、「謝罪」というよりもむしろ一種の慣習である.習慣だからこそ社会をスムーズに動かす潤滑油として大切なのだ小题:①「どうも大変なことになった」とはこの場合はどういう意味か.( )",{"answer":42,"createTime":5,"id":43,"options":44,"question":49,"source":21,"type":22},[],301544629,[45,46,47,48],"中国やベトナムもヨーロッパ諸国と同じだ","中国やベトナムもヨーロッパ諸国よりもひどい","中国やベトナムもアラブと同じだ","中国やベトナムもアラブよりもひどい","わたし自身の体験では狭すぎるので、多くの知人・友人または本から、「過失に対する反応」の例を採集した結果、①どうも大変なことになった.世界の主な国で、皿洗いの人が皿を割って直ちに謝る習性があるところは実に少ない.「わたしの責任です.」などとまで言ってしまうお人好しは、まずほとんどない.日本人とアラブと正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラブ寄りである.②中国やベトナムもしかり.ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうにもないささいなことである〔③〕「すみません」を日本人よりも軽く言う.この謝罪は、「謝罪」というよりもむしろ一種の慣習である.習慣だからこそ社会をスムーズに動かす潤滑油として大切なのだ小题:②「中国やベトナムもしかり」とはこの場合どういう意味か.( )",{"answer":51,"createTime":5,"id":52,"options":53,"question":58,"source":21,"type":22},[],301544630,[54,55,56,57],"かぎり","から","だけに","ばかりに","わたし自身の体験では狭すぎるので、多くの知人・友人または本から、「過失に対する反応」の例を採集した結果、①どうも大変なことになった.世界の主な国で、皿洗いの人が皿を割って直ちに謝る習性があるところは実に少ない.「わたしの責任です.」などとまで言ってしまうお人好しは、まずほとんどない.日本人とアラブと正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラブ寄りである.②中国やベトナムもしかり.ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうにもないささいなことである〔③〕「すみません」を日本人よりも軽く言う.この謝罪は、「謝罪」というよりもむしろ一種の慣習である.習慣だからこそ社会をスムーズに動かす潤滑油として大切なのだ小题:〔③〕に入る適当なことばを選びなさい.( )",{"answer":60,"createTime":5,"id":61,"options":62,"question":67,"source":21,"type":22},[],301544631,[63,64,65,66],"はっきりと","さっぱりと","しみじみと","いよいよと","外国へ旅行した人が、申し合わせたように言うことは、国外へ出てみてはじめて、日本という国のありがたさが① 分かるということだ.自分が置かれた環境は、その性格なり価値なりをなかなか正当には判断しにくい.それがあたり前のことように感じられてしまうからだ.ところがたまたま全然違った新しい環境の中に置かれてみると、あたり前と感じられていた前の環境を、新しい環境と比較することができる、というより比較せざるを得なくなる.いやおうなしに、われわれは比較しなければならない立場に立たされる.ところが、比較してみると、いままで全然気づかなかった性格だとか、長所・短所というものが、実にはっきりと分かってくる.別々に観察していたのではなかなか捉えにくい点が、比較すること〔②〕たちまち痛感されることになる.「かわいい子には旅をさせよ」というコトワザがあるが、これは、もちろん旅に出ていろいろの③変わった経験をさせ、辛苦に耐えさせるという意味をも含んでいるに違いないけれども、そういう違った経験と、今までの経験とを比較させて、その比較によって多くの尊い経験なり勉強なりをさせようというのが、④基本的な目標であるように思われる.比較こそは、事物の本質を知るための最も容易な研究法である.このことは、古くから体験を通してよく知られていた.外国語の学習でも、比較の効能は誰しも感じていた.ところが、⑤その比較を理論的・体系的に進めようとする努力は、決して十分だったとは言えなかった.前章にも述べたように、外国語学習の本当の困難が正しく認識されず、努力さえすれば誰にもできるように簡単に考えられていたことなども、比較研究が理論・体系的に進められていなかったことの当然の結果だったと思われる.⑥語学研究では比較が困難だという事実は、大いに認めなくてはならない.それは母国語というものは、自由に使いこなすことはできても、その言語活動はほとんど無自覚的・反射的に行われるものだから、それをいちいち自覚して反省するということは、誰にでもできるとは限らないからだ.それはあたかも、水泳のできる人が、誰でも水泳の方法を教えることができるとは限らないのと同じである.ところが外国語のほうは、はじめから自覚的・意識的に使わなくては覚えられない.もちろん、その外国語が無自覚的・反射的に使えるようになることが⑦理想には違いないが、言語形成期を過ぎてから、生活と遊離した言語として、抽象的に学習するわけなのだから、自覚的活動として出発しなければならないのは当然のことである.自覚されない母国語と自覚されている外国語とを比較することには、根本的な無理があるのだった.わたしらが中学校三年になって習いはじめた英語の先生は、アメリカに十数年留学していた人だった.その先生が⑧「わたしの日本語は頼りない」と言われたことがあった.わたしらは、その言葉を聞いていっそうその先生を尊敬するようになった.その先生の場合は、十数年間ほとんど英語だけでの生活を続けてこられたのだから、日本語が頼りないということは、とりもなおさず、それだけ英語が達者だと言うことだった.ところが、その頃は、あるいは今でもかもしれないが、国外留学をしたことのない先生までが、日本語を知らぬことを看板にして、⑨自分の英語の力を高く売りつけようとする傾向があった.「自覚していない」ことを、手っ取り早く「知らない」と表現するとすれば、専門学者でないかぎり日本語を知っている人はそう多くはあるまい.だから、日本語を知らないことは、決して英語が達者だということの証明にはならなかった.そして生徒たちも、その宣伝を額面通りに受け取ってよいかどうかは、一ヵ月もすれば⑩見抜いてしまうのだった小题:①に適当な言葉を入れなさい.( )",{"answer":69,"createTime":5,"id":70,"options":71,"question":76,"source":21,"type":22},[],301544632,[72,73,74,75],"にたいして","によって","にとって","にしたがって","外国へ旅行した人が、申し合わせたように言うことは、国外へ出てみてはじめて、日本という国のありがたさが① 分かるということだ.自分が置かれた環境は、その性格なり価値なりをなかなか正当には判断しにくい.それがあたり前のことように感じられてしまうからだ.ところがたまたま全然違った新しい環境の中に置かれてみると、あたり前と感じられていた前の環境を、新しい環境と比較することができる、というより比較せざるを得なくなる.いやおうなしに、われわれは比較しなければならない立場に立たされる.ところが、比較してみると、いままで全然気づかなかった性格だとか、長所・短所というものが、実にはっきりと分かってくる.別々に観察していたのではなかなか捉えにくい点が、比較すること〔②〕たちまち痛感されることになる.「かわいい子には旅をさせよ」というコトワザがあるが、これは、もちろん旅に出ていろいろの③変わった経験をさせ、辛苦に耐えさせるという意味をも含んでいるに違いないけれども、そういう違った経験と、今までの経験とを比較させて、その比較によって多くの尊い経験なり勉強なりをさせようというのが、④基本的な目標であるように思われる.比較こそは、事物の本質を知るための最も容易な研究法である.このことは、古くから体験を通してよく知られていた.外国語の学習でも、比較の効能は誰しも感じていた.ところが、⑤その比較を理論的・体系的に進めようとする努力は、決して十分だったとは言えなかった.前章にも述べたように、外国語学習の本当の困難が正しく認識されず、努力さえすれば誰にもできるように簡単に考えられていたことなども、比較研究が理論・体系的に進められていなかったことの当然の結果だったと思われる.⑥語学研究では比較が困難だという事実は、大いに認めなくてはならない.それは母国語というものは、自由に使いこなすことはできても、その言語活動はほとんど無自覚的・反射的に行われるものだから、それをいちいち自覚して反省するということは、誰にでもできるとは限らないからだ.それはあたかも、水泳のできる人が、誰でも水泳の方法を教えることができるとは限らないのと同じである.ところが外国語のほうは、はじめから自覚的・意識的に使わなくては覚えられない.もちろん、その外国語が無自覚的・反射的に使えるようになることが⑦理想には違いないが、言語形成期を過ぎてから、生活と遊離した言語として、抽象的に学習するわけなのだから、自覚的活動として出発しなければならないのは当然のことである.自覚されない母国語と自覚されている外国語とを比較することには、根本的な無理があるのだった.わたしらが中学校三年になって習いはじめた英語の先生は、アメリカに十数年留学していた人だった.その先生が⑧「わたしの日本語は頼りない」と言われたことがあった.わたしらは、その言葉を聞いていっそうその先生を尊敬するようになった.その先生の場合は、十数年間ほとんど英語だけでの生活を続けてこられたのだから、日本語が頼りないということは、とりもなおさず、それだけ英語が達者だと言うことだった.ところが、その頃は、あるいは今でもかもしれないが、国外留学をしたことのない先生までが、日本語を知らぬことを看板にして、⑨自分の英語の力を高く売りつけようとする傾向があった.「自覚していない」ことを、手っ取り早く「知らない」と表現するとすれば、専門学者でないかぎり日本語を知っている人はそう多くはあるまい.だから、日本語を知らないことは、決して英語が達者だということの証明にはならなかった.そして生徒たちも、その宣伝を額面通りに受け取ってよいかどうかは、一ヵ月もすれば⑩見抜いてしまうのだった小题:文中の〔②〕に次のどれを入れたらいいのか.( )",{"answer":78,"createTime":5,"id":79,"options":80,"question":85,"source":21,"type":22},[],301544633,[81,82,83,84],"変な経験","大変な経験","いままでのが変化した経験","いままでのと異なった経験","外国へ旅行した人が、申し合わせたように言うことは、国外へ出てみてはじめて、日本という国のありがたさが① 分かるということだ.自分が置かれた環境は、その性格なり価値なりをなかなか正当には判断しにくい.それがあたり前のことように感じられてしまうからだ.ところがたまたま全然違った新しい環境の中に置かれてみると、あたり前と感じられていた前の環境を、新しい環境と比較することができる、というより比較せざるを得なくなる.いやおうなしに、われわれは比較しなければならない立場に立たされる.ところが、比較してみると、いままで全然気づかなかった性格だとか、長所・短所というものが、実にはっきりと分かってくる.別々に観察していたのではなかなか捉えにくい点が、比較すること〔②〕たちまち痛感されることになる.「かわいい子には旅をさせよ」というコトワザがあるが、これは、もちろん旅に出ていろいろの③変わった経験をさせ、辛苦に耐えさせるという意味をも含んでいるに違いないけれども、そういう違った経験と、今までの経験とを比較させて、その比較によって多くの尊い経験なり勉強なりをさせようというのが、④基本的な目標であるように思われる.比較こそは、事物の本質を知るための最も容易な研究法である.このことは、古くから体験を通してよく知られていた.外国語の学習でも、比較の効能は誰しも感じていた.ところが、⑤その比較を理論的・体系的に進めようとする努力は、決して十分だったとは言えなかった.前章にも述べたように、外国語学習の本当の困難が正しく認識されず、努力さえすれば誰にもできるように簡単に考えられていたことなども、比較研究が理論・体系的に進められていなかったことの当然の結果だったと思われる.⑥語学研究では比較が困難だという事実は、大いに認めなくてはならない.それは母国語というものは、自由に使いこなすことはできても、その言語活動はほとんど無自覚的・反射的に行われるものだから、それをいちいち自覚して反省するということは、誰にでもできるとは限らないからだ.それはあたかも、水泳のできる人が、誰でも水泳の方法を教えることができるとは限らないのと同じである.ところが外国語のほうは、はじめから自覚的・意識的に使わなくては覚えられない.もちろん、その外国語が無自覚的・反射的に使えるようになることが⑦理想には違いないが、言語形成期を過ぎてから、生活と遊離した言語として、抽象的に学習するわけなのだから、自覚的活動として出発しなければならないのは当然のことである.自覚されない母国語と自覚されている外国語とを比較することには、根本的な無理があるのだった.わたしらが中学校三年になって習いはじめた英語の先生は、アメリカに十数年留学していた人だった.その先生が⑧「わたしの日本語は頼りない」と言われたことがあった.わたしらは、その言葉を聞いていっそうその先生を尊敬するようになった.その先生の場合は、十数年間ほとんど英語だけでの生活を続けてこられたのだから、日本語が頼りないということは、とりもなおさず、それだけ英語が達者だと言うことだった.ところが、その頃は、あるいは今でもかもしれないが、国外留学をしたことのない先生までが、日本語を知らぬことを看板にして、⑨自分の英語の力を高く売りつけようとする傾向があった.「自覚していない」ことを、手っ取り早く「知らない」と表現するとすれば、専門学者でないかぎり日本語を知っている人はそう多くはあるまい.だから、日本語を知らないことは、決して英語が達者だということの証明にはならなかった.そして生徒たちも、その宣伝を額面通りに受け取ってよいかどうかは、一ヵ月もすれば⑩見抜いてしまうのだった小题:③「変わった経験」とはどんな経験をさしているのか.( )",{"answer":87,"createTime":5,"id":88,"options":89,"question":94,"source":21,"type":22},[],301544634,[90,91,92,93],"上文に出た諺の","辛苦に耐えさせるという意味の","今までの経験の","尊い経験及び勉強の","外国へ旅行した人が、申し合わせたように言うことは、国外へ出てみてはじめて、日本という国のありがたさが① 分かるということだ.自分が置かれた環境は、その性格なり価値なりをなかなか正当には判断しにくい.それがあたり前のことように感じられてしまうからだ.ところがたまたま全然違った新しい環境の中に置かれてみると、あたり前と感じられていた前の環境を、新しい環境と比較することができる、というより比較せざるを得なくなる.いやおうなしに、われわれは比較しなければならない立場に立たされる.ところが、比較してみると、いままで全然気づかなかった性格だとか、長所・短所というものが、実にはっきりと分かってくる.別々に観察していたのではなかなか捉えにくい点が、比較すること〔②〕たちまち痛感されることになる.「かわいい子には旅をさせよ」というコトワザがあるが、これは、もちろん旅に出ていろいろの③変わった経験をさせ、辛苦に耐えさせるという意味をも含んでいるに違いないけれども、そういう違った経験と、今までの経験とを比較させて、その比較によって多くの尊い経験なり勉強なりをさせようというのが、④基本的な目標であるように思われる.比較こそは、事物の本質を知るための最も容易な研究法である.このことは、古くから体験を通してよく知られていた.外国語の学習でも、比較の効能は誰しも感じていた.ところが、⑤その比較を理論的・体系的に進めようとする努力は、決して十分だったとは言えなかった.前章にも述べたように、外国語学習の本当の困難が正しく認識されず、努力さえすれば誰にもできるように簡単に考えられていたことなども、比較研究が理論・体系的に進められていなかったことの当然の結果だったと思われる.⑥語学研究では比較が困難だという事実は、大いに認めなくてはならない.それは母国語というものは、自由に使いこなすことはできても、その言語活動はほとんど無自覚的・反射的に行われるものだから、それをいちいち自覚して反省するということは、誰にでもできるとは限らないからだ.それはあたかも、水泳のできる人が、誰でも水泳の方法を教えることができるとは限らないのと同じである.ところが外国語のほうは、はじめから自覚的・意識的に使わなくては覚えられない.もちろん、その外国語が無自覚的・反射的に使えるようになることが⑦理想には違いないが、言語形成期を過ぎてから、生活と遊離した言語として、抽象的に学習するわけなのだから、自覚的活動として出発しなければならないのは当然のことである.自覚されない母国語と自覚されている外国語とを比較することには、根本的な無理があるのだった.わたしらが中学校三年になって習いはじめた英語の先生は、アメリカに十数年留学していた人だった.その先生が⑧「わたしの日本語は頼りない」と言われたことがあった.わたしらは、その言葉を聞いていっそうその先生を尊敬するようになった.その先生の場合は、十数年間ほとんど英語だけでの生活を続けてこられたのだから、日本語が頼りないということは、とりもなおさず、それだけ英語が達者だと言うことだった.ところが、その頃は、あるいは今でもかもしれないが、国外留学をしたことのない先生までが、日本語を知らぬことを看板にして、⑨自分の英語の力を高く売りつけようとする傾向があった.「自覚していない」ことを、手っ取り早く「知らない」と表現するとすれば、専門学者でないかぎり日本語を知っている人はそう多くはあるまい.だから、日本語を知らないことは、決して英語が達者だということの証明にはならなかった.そして生徒たちも、その宣伝を額面通りに受け取ってよいかどうかは、一ヵ月もすれば⑩見抜いてしまうのだった小题:どんなことの④「基本的な目標」なのか.( )",{"answer":96,"createTime":5,"id":97,"options":98,"question":103,"source":21,"type":22},[],301544635,[99,100,101,102],"誰しも効能を感じていた比較","外国語の学習における比較","古くから体験を通してよく知られていた比較","容易な方法としての比較","外国へ旅行した人が、申し合わせたように言うことは、国外へ出てみてはじめて、日本という国のありがたさが① 分かるということだ.自分が置かれた環境は、その性格なり価値なりをなかなか正当には判断しにくい.それがあたり前のことように感じられてしまうからだ.ところがたまたま全然違った新しい環境の中に置かれてみると、あたり前と感じられていた前の環境を、新しい環境と比較することができる、というより比較せざるを得なくなる.いやおうなしに、われわれは比較しなければならない立場に立たされる.ところが、比較してみると、いままで全然気づかなかった性格だとか、長所・短所というものが、実にはっきりと分かってくる.別々に観察していたのではなかなか捉えにくい点が、比較すること〔②〕たちまち痛感されることになる.「かわいい子には旅をさせよ」というコトワザがあるが、これは、もちろん旅に出ていろいろの③変わった経験をさせ、辛苦に耐えさせるという意味をも含んでいるに違いないけれども、そういう違った経験と、今までの経験とを比較させて、その比較によって多くの尊い経験なり勉強なりをさせようというのが、④基本的な目標であるように思われる.比較こそは、事物の本質を知るための最も容易な研究法である.このことは、古くから体験を通してよく知られていた.外国語の学習でも、比較の効能は誰しも感じていた.ところが、⑤その比較を理論的・体系的に進めようとする努力は、決して十分だったとは言えなかった.前章にも述べたように、外国語学習の本当の困難が正しく認識されず、努力さえすれば誰にもできるように簡単に考えられていたことなども、比較研究が理論・体系的に進められていなかったことの当然の結果だったと思われる.⑥語学研究では比較が困難だという事実は、大いに認めなくてはならない.それは母国語というものは、自由に使いこなすことはできても、その言語活動はほとんど無自覚的・反射的に行われるものだから、それをいちいち自覚して反省するということは、誰にでもできるとは限らないからだ.それはあたかも、水泳のできる人が、誰でも水泳の方法を教えることができるとは限らないのと同じである.ところが外国語のほうは、はじめから自覚的・意識的に使わなくては覚えられない.もちろん、その外国語が無自覚的・反射的に使えるようになることが⑦理想には違いないが、言語形成期を過ぎてから、生活と遊離した言語として、抽象的に学習するわけなのだから、自覚的活動として出発しなければならないのは当然のことである.自覚されない母国語と自覚されている外国語とを比較することには、根本的な無理があるのだった.わたしらが中学校三年になって習いはじめた英語の先生は、アメリカに十数年留学していた人だった.その先生が⑧「わたしの日本語は頼りない」と言われたことがあった.わたしらは、その言葉を聞いていっそうその先生を尊敬するようになった.その先生の場合は、十数年間ほとんど英語だけでの生活を続けてこられたのだから、日本語が頼りないということは、とりもなおさず、それだけ英語が達者だと言うことだった.ところが、その頃は、あるいは今でもかもしれないが、国外留学をしたことのない先生までが、日本語を知らぬことを看板にして、⑨自分の英語の力を高く売りつけようとする傾向があった.「自覚していない」ことを、手っ取り早く「知らない」と表現するとすれば、専門学者でないかぎり日本語を知っている人はそう多くはあるまい.だから、日本語を知らないことは、決して英語が達者だということの証明にはならなかった.そして生徒たちも、その宣伝を額面通りに受け取ってよいかどうかは、一ヵ月もすれば⑩見抜いてしまうのだった小题:⑤「その比較」とはここで具体的に何の比較なのか.( )"]